海舟の強い思いとその恩


幕末期の三舟(山岡鉄舟、高橋泥舟)の一人である勝海舟のお話です。一般的に言えば江戸城無血開城を果たした男として有名ではある。飯田はむしろ明治維新後の海舟の生き様にとても興味を引かれる。だから海舟が好きになる。座右銘は「行蔵は我にあり」まず命を賭けてかかろうとやるべき事に間違いが無いならば、自分に信念があるならそれでいいじゃないかと言う思いではなかろうか。よく左遷にあった海舟はこう言う信念を持ってやっていかなければ人生の荒波をのりきることができなかったであろう。福澤諭吉への返書は海舟の真骨頂だ。江戸っ子の粋を表していて腹に落ちた話しである。

海舟を解体新書してみよう。彼の経歴を見てみよう
旗本ご家人勝子吉の長男として誕生
少年時代は剣術や禅を学び肉体と精神を鍛える
私塾氷解塾(28歳)を開き、蘭学と西洋流兵学の講義を始める
1853年(31歳)浦和の沖に黒船が来航した
幕府に「海防意見書」を提出、そして幕府に登用され長崎海軍伝習所の一期生に選ばれる
38歳の時に咸臨丸の艦長としてアメリカに渡航
アメリカ、サンフランシスコに渡り各地を視察し帰国後「神戸海軍操練所」(兵庫県神戸市)を開設。
尊皇攘夷論が激化、1867年江戸幕府が大政奉還
1868年(46歳)新政府軍の参謀西郷隆盛と会談
一触即発を避け江戸城無血開城を果たした。
明治政府の高官を歴任し1898年柔軟に生き抜いた77歳の生涯であった。

幼少の頃から直心影流を修業して師匠の島田虎之助から人生の指針として戦わずして勝つ「無剣の剣」の心を叩き込まれた。我が無になれば自ずと相手と一体になる。相手を斬るのではなく心を奪うと自由自在に動ける。そうして学問も大事と文武両道を勧められる。学問の師匠は佐久間象山、「海防八策」を主君に上申した兵学者である。天才的学習力で西洋砲術を修得し私塾(氷魂塾)を開く。師匠の佐久間象山宅に訪問した折、「海舟書屋」の額が目に留まりいたく惚れ込んでしまう。自分の号にしたいので「海舟」を使わせて欲しと象山に頼んだ。

海舟が幕府随一の国際派になった理由

幕臣でありながら如何にして新政府の扉を開いたのか?如何にして日本の夜明を導いたのか?何故蘭学を学んだのか?それは中国でアヘン戦争が起きたり、いずれは日本もそういうことになるだろう。そして安全保障上の危機を迎えるだろう。日本は当面相手にするのは欧米列強でありそのために西洋の軍事知識が不可欠だと。。。そう言う知識を身につけていたら立身出世の道も開けるだろう。滅多に手に入らない蘭和辞典‘ジーフ。ハルマ」を目にします。全巻58巻で60両(現在の250万円)の高価なもの。其れを10両で1年間借り受けて書き写すのです。彼が写本したのは1部のみならず2部も写本した。1部は自家用にもう1部は販売用として生活費に当てた。欧米列強に負けない知識を修得した。後に妹の夫となった佐久間象山のもとで西洋流兵学を猛勉強した。そこで世界の広さを知り、西洋の大砲の威力を知り強力な海軍の必要性を実感したという。やがてその懸念が確信に変わる出来事が起きた。1853年浦和に黒船が来航した。其れが大きな転機となった。

マシュー。ペリーがある要求を突きつけた。時の老中首座阿部正弘は身分を問わず広く意見を募る。開国を拒絶すべき、時間を稼ぎ。。。等、具体策に欠けるもの。そう言った中、目にとまったのは「海舟存寄書草案」を提出した海舟の意見書であった。

1)身分を問わず有能な人材を登用すること
2)軍艦を造って海防に備えること
3)兵学校を創設すること

どれもみな未来を見据えて考えられたものでした。庶民からの血税を使わず貿易をして稼いだものでそれに当てる。どうにかして日本を守って世界の中の日本をどうやって創るか

長崎で兵学や航海術を学ぶ

ペリー来航5年後の1858年日米修好通商条約を締結
その2年後、幕府はアメリカのワシントンに使節団を送る
アメリカへ渡った海舟が見たものとは
欧米と日本の違いを体験
難局を切り抜ける交渉力
護衛艦咸臨丸の艦長に抜擢
海舟は船酔いや病に苦しみながらも、ジョン。ブルックや通訳のジョン万次郎の力を借りて、ようやくサンフランシスコに到着した。そこには帯びただしい数の軍艦、ペリーの艦隊は氷山の一角だ。どんなカルチャーショックを受けたのか?サンフランシスコの市議会に招かれ傍聴した。市議会議員は選挙で選ばれる。その民主的な政治に驚愕した。アメリカが各国の沿岸調査を行っている事実を知った。より危機感を覚えた海舟は諸藩が協力して諸外国と相対させなければいけないと考えが確信に至った。帰国して老中たちに「アメリカと我が国の違いは何か?」と問われて海舟曰く‘アメリカでは政府でも民間でも、およそ人の上に立つ者は皆その地位に相応しい怜悧(利口)でございます。この点ばかりは全く我が国と反対のように思いまする。無礼者とお叱りを受けたと言われております。欧米列強と対等に渡り合うには、日本を一つにまとめ上げ強固な意志を以てしなければならない。そうして国家を作り上げなくてはいけない。’同じ舟(咸臨丸)に福澤諭吉も乗船していた。(米国人は)誰も答えられないわけです。知らないわけです。こんなに違うのかと実感するわけですね。艦長である自分の上に提督(軍艦奉行木村摂津守)がいる形だけに、実力もないのに禄高が高いという旗本ご家人というだけで、ずぶの素人(軍艦奉行木村摂津守)なのに提督である事への不満である。
 

勝海舟と小栗上野介

幕府使節として渡米経験など踏みまえ、日本近代化を推進する者であったが残念ながら惜しい人材を新政府軍は斬首された。
両者には国の姿、国づくりに違いはあった。小栗は幕府を中心とした考え方である。一方の海舟は日本の国、全体のこととして、幕府はどうでもいい、其れぞれが持っていた世界観が違うと言う考え方で極端に違っていた。そうした攻め具合により海舟が勝つことになる。近代国家の建設の事を思えば、幕臣の中で比較的早い段階で幕府を見限っていた。幕臣の身分でそのように言えることはたいしたもんだと思う。

江戸城無血開城をどう成功させたのか?

1868年1月 鳥羽、伏見の戦いが勃発
新政府軍が江戸に進撃開始
3月4日 江戸城総攻撃と定めた。
全権を任された海舟は強い思いがあった。江戸に史上最大の危機、100万の民を救う海舟の策とは、この混乱に乗じて諸外国が攻め込んできたら?日本が植民地化してしまう。江戸総攻撃を食い止めるために幕臣山岡鉄舟を西郷隆盛のもとに送り込ませた。「敵対する意思はないので、江戸総攻撃は中止して欲しい。」西郷は厳しい降伏条件を提示した。

江戸城を明け渡すこと
軍艦は全て渡すこと
武器は全て渡すこと
徳川慶喜は謹慎の上、備前岡山藩(外様大名)に身柄を預けること。
それでは慶喜が捕虜になってしまう。
徳川慶喜は隠居の上、水戸で謹慎なされること
西郷も慶喜の命は救おうと、江戸の町も無傷で手に入れようと画策するも、然しながら武勇を発揮しようと息巻いている部下を説得するには至らなかった。

海舟が捨て身の交渉に挑む

西郷に会談を持ちかけた
3月13、14日の2日間にかけ会談
初日はお互い腹の探り合いで終わった
結論は14日に持ち越された
海舟は最悪の事態も想定していた
どうしてもと言うのであれば江戸の町を焼き払う
火消しなどを使いながら準備をする
江戸の民が避難できるように舟を手配した
敵を防止するため「江戸焦土作戦」
イギリスに手を回して根回をしていた
イギリス公使ハリー。ハークスを介して攻撃中止を訴えかけた
江戸での戦争は何のためか、徳川慶喜は既に謹慎していると言うのではないか如何に政敵といえども抵抗を止めた者を攻撃するのは人道上も国際法上も認められない。この言葉は西郷に重くのし掛かったと言われている。話しは意外なほどスムーズに運んだと言われている。海舟先生氷川清話(ひかわせいわ)の中で「西郷ドン、俺の言うことをいちいち信用してくれて同一点の疑念も挟まなかった。」西郷曰く「委細承知した。ともかくも明日の進撃だけは中止させておきましょう」こうして江戸総攻撃は中止となった。西郷が望んだ徳川慶喜の謹慎と水戸徳川家は守られた。江戸を失うと将来の都市機能も失う事になる。江戸100万の故郷である江戸を守ることが自らの責務になる。東京都大田区池上本門寺(700年の歴史がある日蓮宗の総本山)の境内にある松濤園(しょうとうえん)に於いて詳細を詰めた。慶喜の処遇問題とその後の具体的な身柄について話し合った。

西郷隆盛と勝海舟会見の碑

境内の洗足池(せんぞくいけ)に立ち寄った海舟はこの風景にいたく気に入り池の端(はた)に別荘を構えていた。ここで日本の未来に眼差しを向けていたのである。最悪の時は慶喜をイギリスに亡命させる。初対面でなかった。海舟が軍艦奉行をやっている時に大坂に西郷が訪て来る。西郷はその時に、西郷は幕府を強くすることによって日本を一つに纏めようと思っていたが幕府ははっきりしない、どういうつもりか?長州を討つことをせっつくため海舟に会いに行った。海舟曰く、幕府はもう駄目だ。今更幕府を頼るのは間違っている、むしろ長州と組んで幕府を潰すべきだ。西郷は大久保に手紙を書いている。

「こんな凄い人がいるのか(海舟に)惚れたと書いてある。この信頼関係はもうその頃から築かれていた。縁(えにし)で結ばれていると言うか海舟と西郷というのは縁で結ばれている。将来、出会う様に段取りされていたような気がします。幕末の沸点に近づいたときに何処で何が起きるか分らないで、殺されるかもしれない。殺されることは別に怖くはないけれど、自分が死んだらその後、誰がどうするのであろうかと考えると夜も眠れない。
相当のプレッシャーの中で無血開城に舵を切った。西郷側も江戸総攻撃を仕掛ける意思は無かったと思う。欧米列強の植民地化政策を避けると言うのが彼の命題であったので、もし内戦になったら幕府はフランスからお金を借り薩長はイギリスからお金を借りて、代理戦争をやるようなものです。そうすれば完全に欧米の植民地になってしまう。これを回避したことに二人の偉さがある。お二人は欧米列強の植民地化政策から日本の国を守ったのだから日本のお札の肖像画になってもおかしくはない。同じ時代の渋沢栄一もなったことですし。海舟はいつも全て俺に任せる事、口を挟むならしない。任されたら大体成功させている。」

知られざる明治海舟の功績

明治維新後も続いた海舟の奮闘に迫る。ある目的のため奔走していた~一体何のためだったのでしようか?ある目的を達成するため「強い信念」を持って生きていた。静岡県島田市、広大な茶畑、海舟が開墾させた茶畑、徳川家達所領静岡藩70万石、多くの人々(300人)が徳川家と共に移り住んだ。全ての家臣を雇い入れることは出来ない。生活苦にあえぐ家臣たちを救おうと海舟が目につけたのはお茶でした。海舟がアメリカに渡った時、お茶が高い値で売れることを知っていた。横浜の貿易商を通じて流通させ、その利益を家臣たちに回した。徳川家臣大草高重の子孫大草省吾さんが保持する巻物に、海舟から1000円、現在1000万円を借り受けたことを記されている。海舟は旧幕臣を支えた。想像つかない苦労があったと思う。元は荒れ地で誰一人として手を付けられないほどの荒れ地であった。団結力は非常に強かったと思う。大草家に遺る書状には海舟から1000円(現在1000万円)を借り受けたとされている。海舟はさまざまの形で旧幕臣を支えていた事が窺えます。海舟の思いやりがこうして遺っている富士の国に茶の都ミュージアイ(静岡県島田市)である。お茶の魅力を伝える博物館で静岡ブランドのお茶は勝海舟の会名誉顧問高山みな子さんがいる。庭に茶畑を作っていた、陶芸もしていた、門前の桜餅もつくっていた。

西南戦争で敗れた西郷(南州)は逆賊とされていた。西郷隆盛の名誉回復を願い尽力した。
西郷隆盛留魂詩碑を建てた。出来ることなら死んでも私の魂をこの世に留(と)めて天使様の皇城をお護りしたい。上野の西郷隆盛像建立にも尽力した。西郷の事を一番分っているのは自分だという自負があった。最後は徳川慶喜の名誉回復であった。其れが成し遂げられたのは明治31年(1898年)春、皇城に出向き明治天皇、皇后に拝謁した。朝敵関係を解消し和解へと導いたのは海舟でした。我が苦心30年少し貫く処あるか。。。時には誹謗中傷されても自分のやりたいことを貫く、これでもうやり残したことはないという心境であったと思われる。明治32年(1899年)勝海舟夫妻墓所 最後の言葉は「コレデオシマイ」福澤諭吉は怪しからんと言っていた「二君にまみれず」という言葉を知っているか?痩我慢之説(やせがまんのせつ)福澤諭吉の著書の一つ、これから出版予定の本であった。海舟は福澤諭吉への返事を長らく差し控えていたが、ここで出した返事は「行蔵(こうぞう、出処身態)は我に存す 毀誉(きよ)は他人の主張我に与(あずか)らず我に関(かん)せずと存候(ぞんじそうろう)」貴方は評論家だ。言いたいことは色々あるだろう、言いたければ存分に言ったら良かろう。だが自分は実際にやった人間だ。そこのところが違うのではないのかと言った。福澤はこれを言われて出版予定の「痩我慢之説」は出せなくなった。

海舟が明治になって何を成し遂げたのか、一番分りやすい成し遂げたことは

士族の反乱(萩の乱、佐賀の乱など)明治初期に起きた反政府活動、旧武士階級の士族を中心に各地で不平不満の士族たちの暴動、その中で最も大きかったのは西南戦争であった。どの乱にも旗本御家人が参加していない。どうして行かなかったと言うことは全部海舟が押さえ込んだ事によるものだ。幕府が終わった時に会計を預かったのは海舟であった。彼が何故、新政府の高官に成ったのか?其れは幕臣の就職先を斡旋する都合があったからだ。江戸城無血開城で終わった終わったのではなくて、其の後が大事、慶喜をどうやって名誉復権をさせることであった。亡くなる前に慶喜を皇居に上げて、名誉回復を果たすことであった。その好機が訪れたのは明治31年(1898年)春、皇城に出向き明治天皇、皇后に拝謁した。そこで皇后自ら慶喜にお酌をして其れを慶喜が吞み干した。朝敵関係を解消し和解へと導いたのは海舟でした。勝は少しは自分もやった、という思いがあった。、間もなくして彼は死ぬのですけれど、海舟の墓は当時勲何等と職歴をズラット刻すのが常であった。たった一言「海舟」としか刻されていない。無傳之合氣を世界に広く広め認知されるまで修行は終わらない!!

是れを成就してコレデオシマイに成る

2022年(令和4年)5月吉日     
合氣柔術無傳塾 飯田宏雄

とったり17427(75)

大相撲では「とったり」の技をよく見られる。無傳塾流にアレンジしてみた。これは合氣柔術です。でもふっつきました。合氣が掛った証左になる。
MUDEN NO Aiki

2022年5月23日

いい氣 いい出会い いい仲間づくり
Good energy  Good enccounters Good relationships
合氣護身術大東流無傳塾
塾長・最高師範 飯田 宏雄