惣角の一番弟子、堀川幸道師範
逸速く惣角に師事した堀川幸道師範
大東流合氣柔術の"中興の祖“といわれる武田惣角源義正は、1898年に霊山神社において会津藩の筆頭家老であった保科近悳(ほしなちかのり)(西郷頼母)より会津藩の御殿武芸(会津藩御留め流)である合氣柔術の秘奥を授けられる。爾来、剣術から大東流合氣柔術(無手)に転向し、指導普及に努められた。以後、宮城県、山形県、岩手県、福島県、秋田県の東北地方で巡回指導をしていたが、惣角の弟子であった財部実秀(たからべみつひで)の秋田県警察部長から北海道警察部長として転任の際、要請によって1910年に随行して北海道に渡っている。
札幌に滞在すること4年間。ある日、惣角はホタテを食べた。その美味しいこと、「これが採れる所で食べたら、さぞ美味しいであろう」と湧別まで物見遊山で出向いていったのである。
その折り、投宿したのが我師匠である堀川幸道先生の父君である泰宗が湧別村(当時は、白滝、生田原、遠軽等を含む)で駅逓旅館(堀川旅館)を経営していた。当主の堀川泰宗は、岩手県盛岡で村田小藤太に師事して渋川流柔術の免許皆伝を得ていた。惣角を一目見て「この人は、ただ者ではない・・」ことを察知し一番良い部屋にお通して厚遇したのであった。
堀川泰宗(たいそう)
は1913年(惣角53歳の時)に入門、続いて翌年1914年に堀川幸道(20歳)が入門している。泰宗・幸道父子で惣角を厚遇、哀願して湧別に永住を決意させた。堀川泰宗・幸道父子が惣角を引き留めなかったら遠軽で惣角と植芝盛平との出会いも無かったのであろう。そういう意味合いから泰宗・幸道父子と惣角との出会いは、運命的なものであった。その後、植芝盛平(1915年に32歳で入門)は、白滝で父危篤の急報を聞き郷里の和歌山県に戻る。1919年まで惣角に師事、後に東京へ進出して合気道として世界に流布したのである。一方、堀川幸道は1950年に幸道会を創設、その活動は現在に至っている。幸道も一時期、東京に出るという話もあったが実現せずに終わっている。もしもそれが実現していたら、植芝の勢力分布は大きく変わっていたであろう。
惣角の免状を代筆した幸道
堀川幸道先生が惣角から直接いただいた巻物第一巻目は1931年1月、(秘伝目録)、堀川幸太郎改め幸道とする。同年6月に秘伝奥義目録、1937年9月には秘伝合氣奥義目録を授けられ、師範を許されるに至りました。その折りに武道名を「堀川幸太郎改め幸道と恩師の武田惣角より命名された。これは如何に惣角より可愛がられていたかという証のひとつである。また我恩師の幸道先生は、惣角が発行する免状(巻物)を代筆していた。その巻物がある著名な方(植芝盛平)に渡っている。惣角の妻スイは、息子の時宗(後の宗家)が14歳の時(1930年)に火事で逝くなっている。惣角は大阪をはじめ日本各地を"十日稽古“と呼ばれる10日間講習を行う巡回指導の旅を続けていた。その間、留守宅におられた時宗宗家のお世話をしていた。1943年、青森にて客死した惣角(享年84歳)。その後、跡目を継ぐべく時宗宗家の後ろ盾として支えたのも我恩師の堀川幸道先生であった。幸道先生は父泰宗とともに、実に30年の永きにわたり惣角に師事してきた。1974年、武道家として最高の栄誉ある"永世名人位“の称号を次の方々から贈られている。幸道会名誉会長であり全日本剣道連盟会長と鉄舟会五代目(山岡鉄舟の顕彰会)を務める石田和外氏(前最高裁判所長官)、自治大臣の町村金五氏、和道流空手名人、大塚博紀宗家、前警視総監、本田丕道(ひろみち)氏、北海道知事,堂垣内尚弘氏、衆議院議員安田貴六氏、北海道大学教授、室木洋一氏(無伝塾顧問)、北海道議会議員作田政次氏、以上8名の名士。さらに教育功労者としての名誉ある勲五等瑞宝章に浴されておられる。
大東流合氣柔術の本旨は、会津藩の殿中武芸"御敷居内“ということもあり、狼藉者が飛び掛かってきたときなど、一瞬にして合氣術を掛け合氣固めをしておいて、一旦お殿様にお伺いをたてた。「この狼藉者、如何取り払いましょうや(どう処置しますか?)」と。お殿様が「よきに払らえ!」といわれてはじめて処置を行った。だから、この術は品格・品性をとても大事にした。これは「斬らない、斬られない。殴らない、殴られない。蹴らない、蹴られない」と解釈されており、また堀川幸道先生の信念であり人生観でもあった。幸道先生は小柄で体力に恵まれない方であったため、惣角から「お前は合氣柔術をやりなさい」ということで合氣柔術を教えていただいた。「剣の腕の達つ者は剣で、力のある者は柔術で、力の無い者は合氣柔術で行け!」と人を見て教えたといわれている。惣角と幸道先生の身の丈は五尺ほど(身長150から155センチ)で、小生も両先生と同じ身の丈である。堀川幸道先生からは
「飯田君は惣角先生と同じ身の丈なので、きっと上手になるよ!」といわれた。この幸道先生のお言葉が今も小生の心の支えになっている。
『会津剣道誌』はそれを裏付けている。合氣術は小柄な人でなければ、その奥に達することができなかった。「大兵肥満型は力に頼りすぎ、反って根本原理を崩し害あって益なし」と記されている。
2006年に行った白滝での稽古合宿において、幸道先生の技を参加者に映像で初めて見せた。ある参加者から我々
やっている今の技は幸道先生のもと同じだ」という感想が聞かれた。飯田宏雄は堀川幸道先生直伝の門弟であり、に幸道会後継者となった井上祐助のお二人に師事し薫陶を得ること30有余年、2000年9月「幸道会50周年記念」を迎えたのを機に幸道会から巣立つことにした。そして新世紀の陽が昇る輝かしい2001年1月1日に無博塾を誕生させたのである。堀川幸道先生の遺徳を受け、「如何にして大東流を世に開いていけばいいのか.. 」という大きな課題を抱えて、この大東流の普及と伝承への使命と責務を背負い、先人達の労に感謝しつつ、"生涯現役“を旨とし技の錬磨に日々精進を重ねる次第である。感謝
幸道館にて 昭和54年 堀川幸道師範
「同じ背丈だからきっとうまくなるよ」
といわれたときの写真。今でもその言葉を信じて修行に精進しています。
”師匠”堀川幸道師範と飯田塾長
昭和43年の入門より堀川幸道師範に師事し続けた
土津霊神に合氣を奉納する飯田塾長。
”師匠”に成り代わって大東流合氣を会津藩祖へ奉納
土津霊神に合氣を奉納
ー恒例「琴似神社奉納演武」
2006年10月1日(日)、会津藩祖の保科正之公を"土津霊神“(ハニツレイシン)として祭祀する琴似神社にて、恒例の奉納演武が執り行われた。明治のはじめ、琴似屯田兵村の主力として入植したのは、旧亘理藩(宮城県亘理)藩士。これに旧会津松平家の旧臣(斗南藩士)が加わっている。大東流発祥の地とされる"会津“の旧領主である保科正之公"土津霊神"は、琴似神社の御鎮座120年に御増祀されている。その優れた政治手腕は「足るを知る人」と讃えられる名君であった。その昔、武田惣角は保科近悳(西郷頼母)より大東流合氣の奥秘を伝授された際、旧会津藩主の松平容保公の御前で「御式内」印可授受を執り行い、その証として容保公から羽織紐が下賜されたという。この奉納演武は由緒正しき"大東流セレモニー“(敬称略)
片石隆幸 四段による合氣奉納
神殿内に深遠な”神氣”と見事に調和!
片石隆幸 四段による合氣奉納
神殿内に深遠な”神氣”と見事に調和!
片石隆幸 四段による合氣奉納
神殿内に深遠な”神氣”と見事に調和!
刀の柄捕り194
いい氣 いい出会い いい仲間づくり
Good energy Good enccounters Good relationships
合氣護身術大東流無傳塾
塾長・最高師範 飯田 宏雄