大東流無傳塾通信 会報 第10号
発行者 合氣護身術 大東流無傳塾
編集制作 クリエイティブ オフィス タムラ

【新シリーズ】

西郷南州の教えに学ぶ

西郷隆盛の人物像を描く
最高師範・塾長 飯田宏雄

「西郷というやつは分からぬやつでした。釣鐘に例えると、小さく打てば小さく響き、大きく打てば大きく響く」、「もし馬鹿なら大きな馬鹿で、利ロな ら大きな利ロだろうと思います」。これは幕末の風雲児、坂本龍馬が西郷と初めて会ったとき、その印象を勝海舟にこう話したといいます。

飯田宏雄塾長による「傘捕り」

《恥辱に耐え忍び成長した西郷南州》

西郷が三十歳になった頃のこと、大老・井伊直弼 による「安政の大獄」 (一八五八年~一八五九年)によって尊皇攘夷派への弾圧が一気に厳しさを増しました。京都東山にある清水寺成就院の住職だった月照という和尚にも、幕府方の追手は迫ります。西郷にとって月照は、維新という理想をめさす同志・親友また師でもありました。西郷は月照和尚を助けようと薩摩に連れ帰り、藩主の実父として藩政を仕切っていた島津久光に保護を願い出るのです。ところが幕府との余計な摩擦を恐れた久光はこれに応じず、薩摩藩からの追放・日向送りを命じました。そうして日向に向かう船上、同志を見捨てて一人で死なせることを潔しとせず、自らも命を絶つことを西郷は決意します。そうして酒を酌み交わし、手を取り合って錦江湾に身を投げました。月照は溺死しましたが、西郷は発見され助け上げられます。志を同じくする者とともに死を覚悟したのに、自分一人が生き残ってしまった。武士にとって、それは死よりも辛く、耐え難い恥辱でした。仏教の行『六波羅蜜』に「忍辱(にんにく)」という教えがあります。辱(はずかし)めを受けて、それに耐えることは人にとって最も難しいことであるが、 それでもなお耐え忍んだとき、人は悟りに近づくことができるというものです。西郷は辱めを忍び生きる道を選びました。その後、西郷は久光の逆鱗(げきりん)に触れ、沖永良部島(おきのえらぶじま) へ遠島され、苛酷な虜囚(りよしゅう)生活を送りました。壁もなく四方に格子が入っただけの狭く粗末な牢に収容されたのです。容赦なく太陽が照りつけ、風雨が吹き込み、ときには波しぶきさえ降りかかるような中で、 一日ニ回の"おかゆ"だけしか与えられず、西郷はみるみる間に痩せ細っていきました。後に座敷牢に移された後も、中国の古典を牢に持ち込む許しを得て、来る日も来る日も書物を読み、瞑想に耽(ふけ) ったといいます。一連の苛酷な試練と先人の教えによって、西郷は何事にも揺らぐことのない固い信念を持つ人間に成長していったのです。何年か後、許されて薩摩に戻った西郷は、人間的に一回りもニ回りも成長していました。そして西郷は維新の実現に向かって邁進していきます。

《大義に基づく信念は日本の行く末を照らす》

日本という国を正しい方向に導かねばならないという大義、その大義に基づく信念、その信念が西郷に勇気を与えた。明治政府における西郷の偉業の一つに廃藩置県の断行があります。 「戌辰の役」で徳川幕府を倒したとはいえ、軍事や徴税を握る藩の力は依然として強く幕藩の封建体制から脱しきることができずにいたのです。ある日、木戸孝允の家に大久保利通や山県有朋らが集まりますが 議論は膠着して前に進みません。黙って聞いていた西郷がついに口を開きます。「議論は尽くした。反対はあろうが この改革を断行しな ければ日本に未来はない。後に問題が生じたら、自分がすべてを引き受ける」。西郷の決意と覚悟の迫力にその場にいた誰もが圧倒されます。旧来の枠組みを排する廃藩置県の勅令が発布されたのは、その数日後のことでした。

《「征韓論』で誤解された西郷の真意》

遣韓使節論をめぐって西郷の真意は誤解されている。江戸幕府の時代には朝鮮使節団が定期的に日本を訪 問するなど日本と朝鮮は親交がありました。ところが明治政府になって、朝鮮政府が西洋文化に浮かれたような日本を軽蔑するようになります。 素晴らしい東洋の文化、つまり儒教や仏教に裏打ちされた高度な文明を誇っていた日本が"西洋かぶれ"している。洋服を着てハイカラになり、「鹿鳴館」で ダンスを踊っているのみならず、その精神までをも西洋に売り飛ばし堕落したというわけです。そのため、日本政府が通商問題で使節団を朝鮮に送ったとき、朝鮮側は交渉を拒否しました。

西郷隆盛肖像

日本政府は侮辱された・外交的に面子を失ったと怒ります。そんな非礼なことをするなら、軍艦による威嚇して強行談判すべきだと論が起こります。そこで、西郷が「私ひとり丸腰で行きます」。「あなたが行けば殺される。やはり軍を率い、軍艦に乗って国の威信をかけて交渉すべきだ」。「それでは相手を威嚇してしまう。その結果、心ならずも戦争になっては大変なことになる。戦争が目的ではない。私ひとりで行く」。「もし殺されれば、そのときに戦端を開けばいい」という西郷の発言が独り歩きして、朝鮮をやつけるために「征韓論』をぶったと誤解されることになってしまったのですが、西郷の本意はそんなところになかったのです。

《西郷の訓。子孫のために美田を買わず》

一八七七(明治十)年、西南戦争の直後に福澤諭吉は西郷を擁護する『丁丑公論(ていちゅうこうろん)』の中に「西郷は天下の人物なり。日本狭しといえども、国法厳なりといえども、あに一人を容るるに余地なからんや」と記し、当時の政府を批判するとともに、西郷という希代(きだい)の人物を失ったことを心から嘆いている。新政府に刃向かった西郷は、いったん明治政府から賊軍の将として扱われました。しかし、江戸城無血開城、廃藩置県など、明治維新で西郷の果たした役割はとてつもなく大きいものでした。その圧倒的な存在感は死後ますます高まっていきます。そして、ついには一八八九(明治ニ十ニ)年の大日本帝国憲法発布に伴う大赦によって西郷は名誉回復を果たします。「命もいらず、名もいらず、高位も金もいらぬ人は」仕末に困るもの也・・というくだりは、西郷のまさに本領という感じがします。彼自身が無私の人であり、自分を無にすることができました。人は欲で動かない。人は何で動くかといえば、誠。仁・義といったもので動く。そういう人でなければ、困難をともに克服して、国家の大業をなすことはできない。人の志といものは幾度も幾度も辛いことや苦しい目に遭って後、初めて固く定まるものである。真の男子たる者は玉となって砕けることを本懐とし、志を曲げて瓦となっていたずらに生き長らえることを恥とする。それについて自分が、わが家に残しておくべき訓 (おしえ)としていることがあるが、世間の人はそれを知っているだろうか。それは子孫のために良い田を買わない。すなわち財産を残さないということだ。辛酸をなめるような苦難を耐え、努力に努力を重ねて乗り越えたとき、初めて人の志は定まる。西郷自身の壮絶な実体験がいわしめた言葉です。

《教養立塾無傳》

学問を志し、知を深めようとする者は、その知識の規模を大きくしなければならない。しかし、ただそのことのみに偏(へだた) ってしまうと身を修めることがおろそかになっていくから、常に自分に打ち克って修養することが大事である。知識の規模・範囲を大きくして、同時に自分に打ち克ち人間を高めることに努めよ。男というものは人を自分の心のうちにスッポリ呑み込んでしまうくらいの度量が必要で、人から呑まれてしまってはダメであると思えよ。物事を成そうとする意気を推し広めようとする者にとって、もっとも憂えるべきことは自己のことをのみはかり、ケチで低俗な生活に安んじ、昔の人を手本として自分からそうなろうと修行しないことだ堯(ぎょう)と舜(しゅん)(共に中国の偉大な帝王)をもって手本とし孔子(中国第一の聖人)を教師として勉強せよ。

《江戸の文化が日本の植民地化を防いだ》

教養は日本の国柄でもある。江戸時代の識字率は日本全体で五十バーセントと推定されている。これは恐らく世界でもスェーデンやドイツの一部地方とともにトップであろう。日米和親条約を威嚇により締結させたペリー提督でさえ「書物が店頭で見受けられた。それ等は初等的な本や通俗的な物語や小説だが、明らかに大いなる需要がある。人民は一般に読み方を教えられていて、女性でさえ、芸事に熟達しているばかりでなく日本文学にもよく通じている」と書いた。明治維新になって日本を訪れた米英仏露などの列強は、武力で日本を植民地化しようと思えば朝飯前であったろう。にもかかわらずそうしなかったのは、日本人の教養水準の高さにあったのではないのか。「自ら統治できない劣等な民族のために我等優秀な民族が統治してあげる」というのがヨーロッパ列強の大変に親切な論理だった。当時、来日した多くの欧米人が述べたように科学技術はともかく教養や道徳では日本人の方が自分達より上、となって植民地化する理屈が立たなくなる。国民の教養や道徳の高さというものは国の防衛力ともなるのである。経済至上主義では人心乱れて国滅ぶ。再生の道はひとつしかない。教養立国ニッポン。※藤原正彦氏の論文より引用
無傳塾は、こういう視点から奧義参段以上は指導者と定め論文を提出して頂いております。]

《知識を見識へ、見識から担識(たんしき)へ》

自分の行いを修め、心を正して君子らしい形を備えていても、いざというときにあたって、それに対処のできない人は、ちょうど木で作った人形も同じことである。学問というものはただ文筆の業のことをいうのではない。必ず事に当たって、これをさばくことのできる才能のあることである。武道というものは剣や楯を上手く使いこなすことをいうのではない。必す敵を知ってこれに処する知恵のあることである。才能と知恵をともに持ち合わせていなければならない。東洋哲学の大家・安岡正篤(まさひろ/一八九八~一九八三年)氏は、 "知識" "見識" "担識"と言っております。知識を「こうしなければならない」という信念にまで高めることで"見識"にしなければいけないのです。しかしそれでもまだ不十分です。さらに、その見識を何があろうが絶対に実行するという強い決意に裏打ちされた「何事にも動じない"担識"」にまで高めることが必要なのです。その担識をもたらすものは"勇気"である。「論語読みの論語知らず」ということがよく言われます。西郷は「幾たびか辛酸を歴(へ)て志始めて堅し」と述べたように、たび重なる辛酸を克服していくなかで、その思想はまさに担識となり信念となっていったのです。

《みんなが正道を踏まなければならない》

正道を踏み行うことに、身分や貴賤はない。等しくみんなが実行しなければならないものであり、みんなが実行すれば、社会はもっと豊かで素晴らしいものになる。「正道」とは、人間の小賢しい考えが入っていない。いわゆる "天の摂理"のことです。表現するとすれば、正義、公平、公正、誠実、謙虚、勇気、努力、博愛、そして西郷がいう無私というような、人間が生きていくにあたり規範となるべき基本的な徳目のことです。または「嘘をつくな、正直であれ。人を騙すな」といった、幼い頃に親や先生教わった「人間としてやっていいこと、悪いこと」という道徳律のことです。そのようなプリミティブな教えこそが「正道」なのです。中国の古典『易経(えききよう)』に「積善(せきぜん)の家に余慶(よけい)あり」、つまり善行を積めばその家には必ず善いことがあるという一節があるように、この徳に基づく無傳塾の運営こそが成長の種となると塾長は考えています。西郷は人格者でしたから「事大小と無く、正道を踏み至誠を推し」、正しい道を貫くことを、日常茶飯、ロにもし、実践もしていました。小賢(こざか)しい策略を用いれば、物事は必ずうまくいかなくなる。それは明々白々なことだと断言しています。

《精進》

一心不乱に働くことによって魂は磨かれる。死ぬときはどういう魂になっているかということが、人の一生の価値を決めるのではないでしようか。つまり、人生の目的とは、お金儲けや立身出世など、いわゆる成功を収めることではなく、 美しい魂をつくることにあり。人生とはそのように魂を磨くために与えられたある一定の時間と場所なのだと思う。精進とは、真面目に一生懸命に励み勤めることで現代でいえば「働く。当塾でいうところの道場に通うことが修行」ということです。この働くということは、単に報酬を得るための手段ではありません。仕事に打ち込む、 一心不乱に働くといことを通して、心・魂・人格がつくられていくという意味では、まさに修行なのです。生ある限り精進に終わりなし。西郷は常日頃から気を抜かず集中して際限のない努力を続けよと言います。
西郷南州の教えは心の教え
風呂は五右衛門、酒は焼酎、膳は一汁一菜、それをありがたく味わい、心地よい疲れを癒しながらゆったりしている。今日もまたそうした至福の時を迎えられたことに感謝し、心を鎮め、また明日も懸命に生きようと気持ちを新たにする。西郷はそのような状態を「君子の心」といったわけです。心を鎮めるということが、そう簡単にできるわけではありません。人間は少し目をつぶっただけで雑念・妄念が一斉に噴き出してしまうような情けない存在です。それだけに、そんな奔放(ほんぽう)な人間の心をコントロールするため、やはり鍛練が必要になるのです。

《終わりに/知足常楽》

塾生は「一期一会」「袖振り合うも多生の縁」という"ご縁"で結ばれております。これからはお釈迦様が説かれた「足るを知る」という生き方ではないでしようか。「嘘をつくな、正直であれ。人を騙すな」という道徳律を持った塾生の輪を拡げていきたい。そして当塾の二〇一〇年に向けて輝ける十周年を共に祝いたいものです。(共楽共育)感謝

服部英龍筆「薩摩で大を連れ歩く西郷隆盛」肖像

【大東流無傳塾二〇〇八年活動】
《主な活動》
〇演武大会(六月二十九日)技術力向上/技づくり
唯一全員参加する行事、二〇一〇年国際大会に向けて
〇こどもへの普及
〇こどもの育成強化 オーロラロードを目指して
〇フィンランドへの普及
〇育成。福井県支部、千歳科学技術大学
〇ビデオづくり ニ〇一〇年に向けて写真撮りを!
〇HPの活性 自分のいい写真を載せよう!
〇核づくり、機関車「七人の侍」

《年間行事の予定》
・稽古始め 一月五日(土) 札幌西区体育館
六日(日) 札幌南区体育館
八日(火)札幌西区体育館
九日(水)きたえーる

・審査会
ニ月十六日(土) 札幌西区体育館
ニ十日(水) きたえーる

・福井県支部出稽古 四月五日(土)・六日(日)
・こども特訓 四月ニ十七日(日)札幌西区体育館
・ウォーキング 五月十一日(日) 野幌森林公園
・演武大会用技づくり 六月七日(土) ・八日(日)当別
・第十一回演武大会 六月ニ十九日(日) 札幌西区体育館
・札幌護国神社奉納演武 七日六日(日)
・審査会
七月九日(水) きたえーる
十ニ日(土) 札幌西区体育館
・こども特訓 八月十七日(日)札幌西区体育館
・合宿(一泊合宿) 九月ニ十日(土) ・ニ十一日
・審査会 九月二十七日(土) 札幌西区体育館
十月一日(水) きたえーる
・土津霊神・琴似神社奉納演武 十月十一日(土)
・福井県支部出稽古 十月ニ十五日(土) ニ十六日(日)
・こども特訓 十一月三日(祝) 札幌西区体育館
・龍馬祭・伝統武道演武会 十一月九日(日)
・審査会 十ニ月六日(土) 札幌西区体育館
十日(水) きたえーる
◆七人の侍/月一回

【おもしろ大東流史】執筆 山里栄樹

大東流柔術 旭川門下生

武田惣角の門下で各界の名士たちが集った町と言えば、やはり旭川であろう。戦前の旭川は旧陸軍第七師団が駐屯した軍都であり、軍歌にも唄われた『加藤隼戦闘隊』は旭川師団に所属する部隊であった。当時の旭川には、現役軍人はもとより予備役・後備役の在郷軍人、さらには老兵の退役軍人たちが大勢住んでいた。武道武術を好む尚武の気風は旭川の土地柄であったようだ。松田敏美、奧山龍峰、前菊太郎など惣角より教授代理を授けられた大家たちが切磋琢磨の合気修行に精を出していた。また惣角を迎えての大規模な直伝講習会が幾度も行われ、本州はもとより朝鮮などの外地からも腕に覚えのある講習希望者たちが押し寄せたという。まさに「大東流の梁山泊(りょうざんぱく)」と呼ぶに相応しいのが大東流旭川門下である。旭川警察署長をはじめ幹部警察官たちが大東流の門人帳『英名録』に名を連ね、遂には旭川市長を歴任した政治家の坂東幸太郎氏までもが惣角の門人になってしまう。実に町ぐるみで一門を構成していたのが「大東流柔術 旭川門下生」の実態であった。武道界のみならす政財官界ならびに軍部など、大東流のマルチ人脈ネットワークでのキーポイントになっていたのが旭川門下生であったと思える。惣角より教授代理を授けられる実力を持ち、酒造業で財を成した山崎興造氏。旭川の酒造メーカー『木綿屋本家男山』とは、江戸時代の元禄期から続く「灘の蔵元」である。江戸に出店を構え、 "樽回船"の船便で酒を上方から江戸に出荷していた。『忠臣蔵』の赤穂浪士も吉良邸討ち入りの早朝、祝杯挙げるために江戸にある『木綿屋本家男山」出店の番頭を叩き起して買い求めたという。なんと山崎興造氏は、三百年の歴史ある伝統酒造ブランドの権利を買収して、新たに「旭川の蔵元」として創業したのである。そして、酒造りの秘法伝承も受け継いだという。酒造りは熟練の職人が厳選された素材を元に丹精込めて仕込むものであり、その伝承体系は古流武術と様相を同じくする。山崎興造氏は、大東流合気とともに「伝統の酒造り」の皆伝印可を得たと言える。

写真題名「大東流柔術 旭川門下生」
昭和初期の旭川には大東流の逸材たちが集結していた

【編集後記】(クリエティブオフィスタムラ編集部)
今回は、飯田塾長による会報紙面での講学です。幕末の松下村塾や慶應義塾を彷彿させる無傳塾でした。

合氣串回し投げ
いつも合氣の掛った柔らかい技をアップしてきましたが、柔術(YAWARA)に合氣を加味すると又ひと味、異なった技に変貌しました。

MUDEN NO Aiki

2022年6月28日

いい氣 いい出会い いい仲間づくり
Good energy  Good enccounters Good relationships
合氣護身術大東流無傳塾
塾長・最高師範 飯田 宏雄