大東流無伝塾を立ち上げて2年目「平成14年(2002)」のこと。当時AikiNewsの編集長StanleyPranin氏からのインタビュー記事になります。当時副編集長の木村郁子氏は後年AikiNewsを引き継ぎ現在は「道DOU」の編集長をしております。スキー界ではオーストリーメッソードとフランスメッソードの二大潮流があり、インターシー「世界スキー指導者会議」で論争.翻って合氣界でも植芝派合気道と大東流との論争があり、合気道の源流が大東流であることの否を!!矢面に立ったスタンレープラニン氏の孤軍奮闘により大東流が世に出たのであります。感謝の一言に尽きます。ここに慎んでStanleyPranin氏のご冥福をお祈りいたします。

合掌

私と合気道

大東流の発展には、 人々にまず大東流を知ってもらうこと、 そして大東流側の構造改革」 幸道会修行時代、スキーインストラクターとしても 活躍、現在は、 札幌で大東流合気柔術無傳塾を主宰する 飯田宏雄(元幸道会札幌西支部長)の 北の国からの熱い発信である。

大東流合気柔術無傳塾 塾長 スキーインストラクター

スキーのオフトレに大東流へ入門

大東流をお始めになったきっかけといいますと?

私が育った時代はチャンバラと西部劇が盛んで、それを見て育ったものですから、武術をなにかやってみたいなあという気持ちはずっともっていたんですね。そんな時に吉田支部長さん(吉田隆:当時幸道会札幌支部長)が北海道新聞に『友を求める』というような広告を出されたんです。当時は武術と言うと、剣道、空手、柔 道という感じでした。私は小柄ですから この三つのうちから何かを選ぼうと思っていたんです。さがしていて聞きなれない“合気”という言葉にひかれて吉田支部長の新聞の切り抜きをとっておいたのです。それでおうかがいしたんですけども、当時合気道の“合気”という言葉を私 は知らなかったですね。大東流については、入っから知ったのです。 実は当時、私はスキーに燃えていたの です。昭和42年に、全日本スキー連盟の 準指導員の資格をとってデモンストレーターに挑戦したりしてました。それで夏場のオフトレーニングに何かをしようと いうこともあって、昔から武術が好きだったものですから、例の新聞の切り抜 きの札幌支部(西警察署の道場)に顔を出したというわけです。そこには堀川先生 が月1回北見から指導に見えていました。

技が掛からない!

堀川先生の稽古はいかがでしたか? 魅力がありましたか?

魅力というんではなく、「不思議 だな、なんで、ああいうふうになる の?」という感じでした。だって先生が さわった瞬間に技は終わってますしね。 ですからはいったばかりではわからない
のは当たり前だなという感じで、私は やっておりました。友達にも何人か勧め たんですけど、みんな辞めていくんですね、聞くと「掛からない、だからおもしろくない」と。 でも堀川先生の技は先輩たちには掛かってますからね、「やっぱり上の人にはきちっと掛かるんだな」と思いましたね。 堀川先生の技を理解するには相当時間 がかかるんですよ。人間というのは自分 の経験だけでものを言いますから、自分が掛からないから「あれはだめだ」と言う。はじめはそう簡単には掛からないです よ。そこを通過して掛かるようになって きたら一人前になってきたんだよと言う んですけど。それまでみなさんは待てな いんですね。そこが私も悩むところなんですけど。 本気で掛かってこない人に合気の技は 掛かりませんから。本来は護身術であ り、掛かってきた人に対応する技です。 初心者はそのへんがわからない。ふ にゃっと掴んだりするけど、そんなのは 掛からないですよ。そういうのは関節技 なんかでやらなきゃいけない(笑)。 しかし、我々は関節技を使わないか ら、そういう面ではむずかしいんです ね。関節技を使って痛い目にあわせてや ろうかなと思う時もありますけど、そう いう痛めつけるというのはやりたくない ですからね、だから結局なんとか見せな がらやらせて覚えさせていくというふう にしてるんですけども、なかなか理解さ れなくてくやしい思いをしたことが何度 もあります。 私が入門した当時、堀川幸道先生の古 い門弟の吉田支部長さんは関節技をやり ましたよ。我々も悲鳴をあげましたから。

と言うと、幸道先生もある時期、関節技をおやりになった。

と、思うんですよね。私が堀川先生とお会いしたのは、先生が74歳の時 で、その時は関節技はやっていませんでしたが。もうすこしお若い時に、いわゆ る「剛の合気」
というか、それをやられたと思います。 技のステップとしてみますと、堀川先生のお父さんが渋川流の免許皆伝ですね、そこからまず柔術を習ってます。それが土台なんですよ。そこに武田惣角先生がはいってきてブレンドされたと思います。私は昭和43年5月入門ですけど、当時そういうものは誰もやりませんでしたね。吉田先生の入門は昭和30年です。昔の稽古の録音なんかを聞きますと、漢詩を吟じて気合を入れ、すごい声を出しな がらの稽古風景だったようですね。だからいわゆる「ごっつい」剛の技はやってい たんだろうと。

堀川先生は教師もなさっていましたね。教育者という面から言うと、稽古場でも細かい説明などなさいましたか。

いいえ。まず、口での説明はなかったですね。ただ掴んで「ポイ」(笑)、「はい、やってみて」。と言って、ゆっくりやるわけでもないし、技は小さくて速いし、さわった瞬間にポンと投げてるわけですから、何もわからないですよね、初心者は。あの頃はみんな、わからなかったんじゃないですか。ただ合気とはどういうものだろうという気持ちでやってきたのだと思います。その頃の指導者クラスの人もわからなかったと思いますよ。

堀川先生は教師もなさっていました ね。教育者という面から言うと、稽古場でも細かい説明などなさいましたか。

いいえ。まず、口での説明はなかったですね。ただ掴んで「ポイ」(笑)、「はい、やってみて」。と言って、ゆっくりやるわけでもないし、技は小さくて速いし、さわった瞬間にポンと投げてるわけですから、何もわからないですよね、初心者は。あの頃はみんな、わからなかったんじゃないですか。ただ合気とはどういうものだろうという気持ちでやってきたのだと思います。その頃の指導者クラスの人もわからなかったと思いますよ。

堀川幸道
1894~1980 北海道北見枝幸に生まれる。青年の頃から父(堀川秦宗)より柔術を学ぶ。1914年大東流に入門、武田惣角に師事。1937年、師範を許される。1950年、北見市に大東流幸道会を設立、他界するまで北見において大東流を指導。

幸道館にて 昭和54年 堀川幸道師範と
「同じ背丈だからきっとうまくなるよ」
といわれたときの写真。今でもその言葉を信じて修行に精進しています。

スキーのインターシーを 大東流にも

スポーツのスキーも本格的にやられたわけですが、大東流の稽古と比較してどうですか?

スキーも武術も身体の運用法というか、身体の使い方は同じです。両方ともバランスということと、力を抜くということです。スキーでも力を抜くことしか教えませんから。私がいつもやってるのは、「日舞(日本舞踊)のごとく」です。イメージはそれしかないです。ああいう動きで充分だということです。あの動きで技というのは 掛かるんだという考え方です。だからそういう面からみれば動きは小さく、ものすごくやわらかくやっていかなくてはいけない。挨拶(お辞儀)のあの姿勢がもう技になるんですよ。我々は“お辞儀スタイル”と言っていますが。黒田先生も言っておられますね。武術的に言ったら、正中線が、軸が、どうのということですね。あれができないときれいなお辞儀はできません。それと、スキーの話に戻りますが、スキー技術にはオーストリーメソッドとフランスメソッドという二つの潮流の技術があり、これについて相当な技術的な論争があったのです。この論争がどんどん盛んになって、技術が向上しました。私はこういう論争は大東流を開いていく過程でも必要だと思っています。それからスキー指導者というのはオリンピックには出られないけれども、指導者のオリンピックにあたるインターシーというのがあって、それに出るためには、デモンストレーターとして各地区から選抜さ れなければならないわけです。ですからインターシー
はデモンストレーターにとって憧れの場
になるわけです。つまり、そういう憧れの場・サッカーW杯のような檜舞台が必要ではないかということです。武道界では、まさに今回 のエキスポ
がそれなんだと思いますね。

大東流に構造改革を

今後大東流を開いていくにはエキスポのような交流は避けて通れない問題 です。私が言いたいことは、“これから大東流をどう開いていくべきか”という ことなのです。

交流というのは単に仲良くなるだけ ではないわけですからね。

今の大東流斯界は世代交代の時期 にきていると思います。武田惣角先生の最後のお弟子である佐川幸義先生も亡くなられて、2代目3代目がいま跡を継ごうとしてるでしょ。そういう時代になってきたわけです。 だからここで前と同じことをやっていたら、企業で言うところの縮小均衡となり、そしてじり貧となっていきますね。 そうでなく再生復活(ルネサンス)させていかなくてはならない。つまり大東流の構造改革をやっていかないといけない。それを仕掛けてくれるのが、プラニンさんの役目じゃないかと思っているんで す。なんと言っても武田惣角先生とか大東流の名前を広めたのはプラニンさんですからね。 本やビデオで大東流が流布されてきた現在、我々はどういうスタンスでやって いかなければならないか、どうやって広めていかなければならないかといった時に、スキー界の普及の仕方をみると、やはり開いて論争していろいろ試みたほうが技術的にも上がってきていますね。

10年前の合気ニュースの座談会(合気ニュース96号掲載)の最後に井上先生(井上裕助幸道会総本部長)が、「底辺を広げることよりも、一人でも二人でも本当の技を引き継いでもらいたい」と、加藤 先生(加藤富春副本部長)も「少数精鋭でい い」とおっしゃっていますね。

一子相伝なら一子相伝でもいいんですが、まずそれだけの人をさがす必要がある。それには底辺を広げないとだめだと私は思います。ここで競い合ってそこから選りすぐった人を強化していく。 この選抜がオリンピックを筆頭にいろいろな大会ですね。こういうものが大東流界にはない。ライバルを持ち、お互いに競い合うなかで技術力の向上を図ることを目指すべきだと思います。そういう意味で今回のエキスポは一石を投じたことになるわけですよ。

たしかに、一子相伝どころか武田惣角は3万人くらいの弟子を持っていたといいますからね。つまり全国に大東流を広めていたのですね。惣角が秘密主義でやっていたら、今現在何も残ってないはずですよ。その点、今の人は惣角ほど広めていないと言えますね。

ようするに、現代の人は広める時間がないんですよ、プロでないから。ですから私も早めにリタイアしてライフワークとして大東流の普及をやろうとい うことなのです。そういった活動は、岡本先生を筆頭に幸道会を出た人間がやっている。私もその末席を汚したいなと思って。堀川先生にはすごく恩義を感じています、堀川先生あっての私ですから。岡本先生にご挨拶にうかがった時も、堀川先生の名を二人で高めようじゃないかと言ってくださったんです。で岡本先生も初めは東京支部で出てこられたのです。岡本先生にお願いしたいことは、幸道会のOBとしてそういったものをとりまとめ るようなことをやっていただきたいなと。

他にも東京の小川忠男先生とか光道の錦戸武夫先生など考え方が似た方はいらっしゃると思います。別に組織を作らずにたまに一緒に会って話をするとか。

私もそう思っています。幸道会OB会などのようなものを拡大するには、まずは自前で、そうして企業的に言えば提携ですね。次に考えられるのが、友好関係という か、何かあった時に行動を共にするというのもいいと思っています。同会派の支部、もしくは“かまど(独立した会派)は異なっていてもよし”の間柄で提携をしてもいいし、演武会には一緒 に出ようかという関係でもいい。そういう気持ちでやっていけば、どんどん広 がっていくように思います。そういう理念で牧羊館(幸道会OB)との提携があるのです。それが大東流全体に寄与することにもなるし。そういうふうにして2005年に国際大会をやろうと、いま環境整備をしているところなんです。

無傳塾

無傳塾は2年目になりますか。

はい。幸道会の50年祭で、ひと 区切りだからということで、2001年の1月1日を無傳塾の発足日にしました。

お仕事も辞められたのですね。

ええ。日立家電の総務畑にいました。人事、庶務、経営相談部とか。配下に問屋さんがいてそれをまとめるとか。後半は愛宕産業という日立家電の子会社 に出向していました。日立家電が日立製 作所に統合することになり、それを機会 に日立を53歳で辞めて、この道にはいっ たのです。

指導カリキュラムはご自分で作られ たのですか?

ええ。幸道会札幌西支部にいた時 には自分なりのカリキュラムは組めまし たから。毎年すこしずつは変更していま すが、自分なりのやり方でやっています。私はスキー(指導員)をやっていましたから、人に教える時に何をやったらこの人は早く覚えられるかは肌で感じているわけで すね。柔術やって合気の技をやってとな ると、時間がかかりすぎるので、はじめ からうちは合気の技からはいります。
早 くマスターするにはどういう練習方法を とったらいいかを考えて教えています。 指導方法の原理と言うと、「ゆるみ」で すよ。ただゆるめばいいんです。

無傳塾の特色は何かと言うと、コレ(手を開く)
ですよ。その次は閉足
です。コレとか閉足とかは、大東流でもあまり言わないですよ。この閉足に秘密がある んです。その次は「ゆるみ」
、これが無傳塾の三大特色です。ゆるみの中には姿勢がはいります、姿勢がいいとゆるめるんですよ。ただしダランとしているのは、いわゆる腑抜けですからね(笑)。能のように、ピーンとしているなかでゆるまなければならない。そういう面から私も座禅をすこしかじりましたけれど、まさしく合気は動く禅だと思いますね。

大東流をメディアにのせる

私は大東流を通して日本文化をどうやって世界に伝えるかを考えています。大東流の技術的なこと――我々は身体 文化と言ってますけど――を通して日本文化とは何だろうということがわかってくると思うんですね。そういうものを一 緒に伝えていきたいと思っています。なぜ私が日本文化を意識するようになったかと言うと、先ほども言いました が、やはり禅の影響です。あれは日本文 化の母体ですね。そういうものがすこしずつわかってきたので、もちろん武術の論争もやっていかなくてはならないけど も、併行して日本文化と精神文化とは何 だろうと考えていきたいと思っていま す。来年はNHK大河ドラマで『宮本武蔵」をやりますから「武士道」というのが台頭してくると思うんです。このようにまず、武道にはいるきっかけをつくることだと思います。きっかけは何であってもいい、はいっていくことによってすこしずつ高められ深められていくわけですから。今は強いものへの憧れが強いですから、そういう点からみると武田惣角という人は明治以降の剣豪ですから、最適な題材であるわけです。ですから武田惣角をメディアにのせることによって、大東 流がどんなものであるかが、世に出やすいのではないかと思います。

大東流は、昔は偉い人しか習わなかったのですが(殿中武術)、それを今は我々 庶民が習っているわけでしょ。ちなみに北辰一刀流の千葉周作は商人などの庶民にもやらせて千葉道場には門弟3千人と言われていたそうです。防具をつけさせたり、試合制度や段位制度を作って門弟に興味を持たせる工夫をしたそうです。当時としては革命的なことだったと思います。だから大東流も、普及、底辺拡大を図るためには、平成の改革をしなければいけないと思います。プラニンさんのエキスポもその一つですし、“憧れの人”を創 らないと…武田惣角をメディアにのせることもぜひ考えていただきたい。 武者修行という言葉があるでしょ、現在でもビジネスの世界に通じると思うんです。終身雇用制度がなくなってきているから、自分を磨いて自分を売っていく時代だから。そういう時代になってくる時に、武田惣角が放浪して歩いた武者修行は時代的にマッチすると思います。つまり惣角という「今武蔵」がいたということをアピールするのもおもしろいんじゃないかなと。それで武田惣角という人物を知って、大東流を知って、大東流 があって合気道があってとつながっていくわけですし。その「厚い 合気」
仕掛け人をプラニン さんがなさってくれないかなと。

いかに力を伝えないか

無傳の意味につきまして。

技をやっていて力を伝えなければ すごいパワーになることがわかったので す。力を伝えなければ伝えないほど相手 に反応する。禅で言うと、「何もないこ とがあること」になるわけです。否定す ることが大肯定になるわけですね。それ がだんだんわかってきたのです。 無にならなかったら力が出ちゃうんで す。相手がガーンと出てきたら「なにっ」 と反作用して、それが力になって出るん です。それを消さなきゃいけない。消さ ないと非力な人は負けちゃうわけです ね。つまり力の世界にはいってしまう。 私は力の無い世界で勝負する、だから 力を伝えないことが最大のエネルギー、 パワーになるから、それをやっていかな ければならないと思っているわけです。それが技術目標なんですよ。その形の現 われの一つが、外からみたら「日舞の如 く」なんです。 私は見えない身体とか合気体とか言うん ですが、見えない身体づくりをして、(身体 の)中ですごく動くんですよ。しかし、そ れを相手に伝えてはいけないんです。伝 えないから、それがものすごいパワーに なって出るというのがわかったのです。 これは「筒の原理」だと考えています。 この空っぽ(筒)の中でやりとりをしてる んです。体の中でやりとりをするという のは空洞になってるわけだから、いくら でも簡単にできる。相手が掴んだぞと 思っても、それは殻しか掴んでないんで すよ。中でゆるめればいくらでも…こういう気持ちにならなきゃならない し、身体がそういうふうにならない限りは 絶対、合気は会得できないと思う。 こういうふうに感じてきたのは10年く らい前からです。小川忠男先生はこの感 覚を“空洞”という言葉で表現しています ね。自分の感覚が正しかったのがわかり ましたね。空洞という言葉のかわりに私 は筒という言葉で「筒の原理」
にしようと(笑)

そんななかでいかに力を相手に伝えないかを命題にやってきて、この「無傳」
という言葉にめぐりあったわけです。 心の面で言うと、目に見えるものでは なく心で伝えていくものです。これは指導法の要諦でもある。真心でもって相手 に伝えていかなければいけない。私はスキー(指導員)をやったせいもあるし、教え屋さん(お節介屋)なんですね。教えることに無上の喜びを感じる。教えることによって、相手がうまくなって喜んでく れる。これは指導者にとって醍醐味だし、その見返りというのはすごいものだと思う。今はやりの「癒し」にもなるんですよ(笑)私の武道を「癒しの武道」
と言ってくださる方もいるんです。ようするに柔らかくやるわけでしょ、関節をがんがん攻めていくような技ではない。終わったあと、すごくすっきりすると言ってくださる。座禅に行くと仙人みたいな方
がいらっしゃるんですけど、ある日、私が空洞の話
をしたんですよ。そしたらその方が「 飯田さん!その話。誰から聞きましたか!」
とびっくりされてね。「合気道で感じたんです」と言うと、「座禅の極意がそれなんだよ」
と言われたんです。やっぱりそういうところからくると、人間の身体の使い方というのは同じなんだと、動く禅を目標にしてやっていかなければならないなという意を強くしたわけです。さっきの無傳ではないけれども、から「薄い合気」
ですよね。厚い合氣
というのはいわゆるガーンと一般にやってるやつですね。薄いというのは紙一重というか、微妙な合気。その次にくるのが触れ合気
だと思う。

大東流の代表的な技である「合気上げ」

「いい気、いい出会い、いい人づくり」

この「いい気、いい出会い、いい人づくり」という言葉、私、好きなんですよ。堀川幸道先生の名声を高めることか ら始まって最後はみんなで夢を持とうと、「夢に終わらせない、夢を終わらせない」
ということで。武道家の本当の意味をみんなに知ってもらわないと、単なる無頼漢で終わってしまう。誰が強い(うまい)か弱い(へた) かの世界ではなくて、技にも品格品性を 尊びたいものです。まずはごく常識的な 一般社会人であるということ。 それから『武士道』にあるような、新渡 戸稲造先生が訴えたかったこと。つまり 「思いやりの心」
を持つということです ね。これを先生は”仁”と言うと書いておら れますね。そういうことを著名な人が 言ってくださると教育的にもいいのです が…私は、武道を教育にどう生かしたらい いかというテーマを投げかけようとして いるんです。その活動を学校の先生にも すこしずつ訴えていこうと思っていま す。そのように大東流で訴えかけていく 意味でも、プラニンさんには今後も能動 的に活動していってもらいたいと思います。

平成14年6月26日 東京ワシントンホテルにて 聞き手:スタンレー・プラニン/編集部

後ろ技両肩づかみ16.7.24
後技:後から両肩を掴んだ時の技です。触れたか触れない内に投げられます。それは無傳の合氣による崩しです。力が要らないから取の体勢は前屈しないで真っ直ぐに立っていられるのです。これが大東流の合氣、無傳の触れ即合氣になります。
MUDEN NO Aiki

合氣柔術無傳塾 飯田宏雄

2021年8月6日

いい氣 いい出会い いい仲間づくり
Good energy  Good enccounters Good relationships
合氣護身術大東流無傳塾
塾長・最高師範 飯田 宏雄