日本武道外交史に学ぶ

2008年・平成20年8月8日から14日まで北京オリンピックが開催された。世界が中国を知り、中国も世界を知る。国際オリンピック委員会(IOC)のロゲ会長は五輪は中国の政治社会の扉を世界に開いた。今年5月に来日した中国の故錦涛国家主席が福原愛と卓球をした。故主席は大きく振りかぶってスマッシュを披露し、見守る日本の福田首相もたじろいだようだった。日中国交正常化の1年前、1971年春の卓球世界選手権名古屋大会に、文化大革命の影響で国際社会から孤立していた中国が参加、スポーツの表舞台に復帰を果たした。大会中に中国側が米国選手団に本国招待の意向を伝え、大会後に実現した。米中国交樹立の足がかりとなった“ピンポン外交"周恩来さんは中国の政治にうまく卓球を取り込んだ。


講道館四天王の山下、米国に渡る

日本のお家芸である柔道は石井選手が100キロ超級で金メダル
を獲り面目躍如たるものがあった。1902年・明治35年5月、講道館の高弟である山下義韶(よしつぐ・当時7段、後に10段)が北米合衆図太北鉄道社長にして世に鉄道王と称せられるサミユル・ヒルの招聘時に応じ渡米し明治40年6月まで滞在してルーズベルト大統領をはじめハーバード大学、アナポリス海軍兵学校及び外交官、貴婦人団体等に柔道を教授したことが、米国に於ける講道館柔道鼓吹の端緒であるのみならず山下の大成功はやがて海外に於ける日本道の声価を重からしめ、柔道は続々として欧米に進出するに至ったのである。1904年・明治37年3月9日、大統領セオドア・ルーズベルトが入門。慶応の教授で米国に行った柴田一能が鉄道王サミユル・ヒルと懇意になり鉄道王は平生深く家庭教育に心を用い、殊に女の体育に注意していて、体格強化には日本の柔道が大に功があることを聞いていたので柴田に相談し、柴田は其の人物技術を熟知した山下を推薦した。山下は当初唯だ鉄道王の家庭教師として渡航したのであり、大統領の教師となるのは想定外の大成功だったのである。山下渡米の時、歳38。筆子夫人は12歳下の26歳であった。

米国の貴婦人たちと柔道

鉄道王のヒル夫人が、柔道の稽古を危険がって、子女に課することを望まなかったが、南北戦争で有名なるリー将軍の孫娘が勇敢にも柔道修行を思い立ち、同じ貴婦人社会の名物なる“ホース・レディー"と異名をとった愛馬家ワーズ・ウオース夫人が乗り出してきてこの夫人が大いに斡旋して、有数の貴婦人令嬢を誘って山下の教授を受けることになった。北米合衆国はさすが女の国、その柔道鼓吹は女から始まるのである。かくの如く、山下に肩を入れることになっては社交界は動かざるえない。山下の為に、日本固有の武道の仕来り(しきたり)に倣って入門帳を作ることになり、革表装の豪華な入門帳が出来上がった。この記念すべき世界的入門帳の最初の署名者は1903年11月21日第6番まで悉(ことごと)く婦人である。その第7番の署名者が(Blow Words Worth)36即ち“ホース・レディー”で、翌1904年の2月5日は、ワーズ・ウオース夫人36歳と自署している。この“ホース・レディー”夫妻が時の大統領ルーズベルトと極く懇意の間柄だったので、夫人から山下夫妻を大統領に紹介し、遂に大統領を誘って入門せしめたのであるから、我が柔道の海外進展を記するにあたっては“ホース・レディー"の名を特筆しなければならない。大統領ルーズベルトの入門は1904年・明治37年3月9日にして(Theodore Roosevelt)45と自署している。我が国に武道の入門帳多しといえどもこの人門帳こそ未曾有の国際的なものにして苟(いやしく)も世界大国の皇帝または大統領が入門帳に署名したものは古今東西ともにこの一冊より外には無い。我が柔道の世界的宝物にして珍重すべき入門帳である。当初貴婦人たちが稽古を始めたとき、婦人の相手には婦人教師でなければならないというので、筆子夫人が急に稽古を始めることになった。夫人は主として『柔の形』を学び山下が受を、夫人が取をやって、形通り山下を投げたのである。アメリカの新聞などは柔道の形というものを知らないから「山下は強いが、更に夫人は山下よりも強く容易に山下を投げる」などと書きたてたものであった。

日露戦役講和の立役者ルーズベルト大統領

1905年・明治38年5月28日の朝、山下いつもの通りホワイトハウスに柔道の教授に行くと、大統領は近づいて来て、山下の耳に口をつけて「プロフエツサ・ヤマシタ、バンザーイ、バンザーイ」と囁いた。山下は何のことか分からなかったが、日本海の大捷(たいしょう)であったことが間もなく分かった。日本公使館よりも、大統領の方が先にこの情報を手にしていたのである。1905年5月27日から28日、日露戦争での対馬海峡におけるパルチック艦隊に壊滅的打撃を与えた。当時戦争能力が限界にきていた日本政府は、この海戦の勝利を機会に北米合衆国大統領セオドア・ルーズベルトに戦争の調停を依頼し、ポーツマス講和を実現させた。1905年・明治38年9月。最初、山下が大統領から招かれて謁見するとき、日本公使館では大に驚き、竹下勇海軍大将(当時公使館付武官、大佐)を同伴せしめ、爾来両人の間には密接な連絡があった。竹下は兵学校のむかしより山下の指南を受けて熟知の間柄であったのである。山下の外交上に貢献した功は決して少なくなかった。金鵄勲章(きんしくんしょう)に値すると竹下はいった。
このようにそして中国のピンポン外交、日本の柔道は平和外交に寄与すること大であった。

1905年・明治38年5月28日の朝、山下いつもの通りホワイトハウスに柔道の教授に行くと、大統領は近づいて来て、山下の耳に口をつけて「プロフエツサ・ヤマシタ、バンザーイ、バンザーイ」と囁いた。山下は何のことか分からなかったが、日本海の大捷(たいしょう)であったことが間もなく分かった。日本公使館よりも、大統領の方が先にこの情報を手にしていたのである。1905年5月27日から28日、日露戦争での対馬海峡におけるパルチック艦隊に壊滅的打撃を与えた。当時戦争能力が限界にきていた日本政府は、この海戦の勝利を機会に北米合衆国大統領セオドア・ルーズベルトに戦争の調停を依頼し、ポーツマス講和を実現させた。1905年・明治38年9月。最初、山下が大統領から招かれて謁見するとき、日本公使館では大に驚き、竹下勇海軍大将(当時公使館付武官、大佐)を同伴せしめ、爾来両人の間には密接な連絡があった。竹下は兵学校のむかしより山下の指南を受けて熟知の間柄であったのである。山下の外交上に貢献した功は決して少なくなかった。金鵄勲章(きんしくんしょう)に値すると竹下はいった。
このようにそして中国のピンポン外交、日本の柔道は平和外交に寄与すること大であった。

大東流Aikiで武道外交を椎進ぜよ!

さて、我合気は第2の柔道(大束流と合気道)と称することが出来ると考えています。
前述の如く、柔道普及の歴史に学ぶこと多である。小生もかってドイツ(故米澤師範に随行、感謝しご冥福を祈る)に武者修行の折、ドイツのベルリン大使館にご招待(晩餐フルコース付)されて行ったことがあり、いい思い出となりました。今の子供たちは将来成人して世界へ飛翔。そして男性はいずれリタイヤしてシニアとして、ご婦人たちもこのAikiの御殿術(御式内)を
以って前述の筆子夫人の如くされんことを期待しております。世界平和に貢献できる人になって頂くことを大いに希望します。Ambitious Aiki バンザイ!!

18回演武会座半棒合氣投げ181027
無傳之合氣(ふっつきの術)の定義の5つの内の5番目で「投げた瞬間に悶絶などの発声もあり得ること」に当たる。

MUDEN NO Aiki

Authentic Japanese Bujutsu Daitoryu Aiki Goshinjutsu MudenJuku

United States Branch Chief Reinaldo Gacita

2021年7月16日
合氣護身術大東流無傳塾 飯田宏雄

いい氣 いい出会い いい仲間づくり
Good energy  Good enccounters Good relationships
合氣護身術大東流無傳塾
塾長・最高師範 飯田 宏雄